昭和47年8月4日 朝の御理解

第87節 腹は借り物というが、借り物ではない。万代の宝じゃ。懐妊の時は、神の氏子     がわが胎内におると思うて大切にせよ。




 本当の、本当の事を教えて頂いておる訳ですね。腹は借り物と言うけれども、借り物ではないと。そんならば、自分の物かと言うと、なら自分の物でもない。言うならば、神様のもの。中に宿った子供でも、自分の子供じゃない。神の氏子として教えておられる。ね、ですから信心の根本的な理念と申しましょうかね。ここから出発しなければ本当な信心は分かりません、金光様の御信心は。ね。例えば、体でも言うならば、神様に頂いておる物。子供でも、夫婦がなら例えば作ったというのではなくて、やはり神様の頂き物。だから、それを大切にするからおかげになると。

 例えば、人から贈り物を受ける。ね。その受けた者が受けた物を大事にする。大変それを喜ぶ。そすと、またあげたいといったようなものが、心が起こって来るようなものじゃないでしょうかね。神様からの頂き物だから、ね、お粗末には出来ないという考え。まあ、本当言うたら、神様の御物と言うなら子供でもそうと。自分の子供と思うから叩いたり、怒ったりするけれども。ね、神様の御氏子であると頂かせてもらう。そすと、お粗末な事も出けません。それを神様の氏子として、今度は例えば尊ぶ、大事にするならば、それを神様が喜んで下さらないはずがない訳ですね。

 信心はそういうところから、いわゆる本当の信心は分かって来るのです。だから、一つ本当の事をここでは教えておられるという事。例えば子供が体内に宿ると。神様の氏子がおなかに宿って下さったと思うて、それを大事にするという事は、まあ栄養を取るといったような事もありましょう。けども、一番大事にするという事は、まあ最近それを言われますね、〔たいきょう〕という事を言われる。その子供を大事にするという事は、おなかに宿っておる子供を大事にするという事は、その母親自体の心を大切にするという事。それがたいきょう。

 だから、また良い子を頂くことになる訳です。ね。私あの、87節はそういう事を教えておられるけれども、この87節から色々と感じさせられる事。まあ、それからヒントを受ける事のところを、今日は聞いて頂きたいと思う。今日、ここへ座らせて頂いた途端に、すずり箱でもこう、ここの書道具、小道具の全部が夕べのままになってる。だいだい、これはきれいにふきあげて、〔     〕御神米でも納め、これも洗うてきれいに、〔   〕もきれいに洗って、新しい水が毎日してある。と、こうやって見ましたところが、このへいがザグザグしよると。あいた、これは夕べはお掃除せじゃったばいなと。はっはっは。そう思うたらね、思うた途端に頂いた事が、竹内良子ち頂いた。

 日田の竹内さんのことですよ。ほれで、どういう事じゃろうかと思ったらね、まあ竹内という、竹という事は素直と頂く。まあ、お前の弟子としては良かうち、まだ。出来すぎとる方じゃ、どっちかち言うなら。と、まあ頂いた途端にですね、もう今日は一口、あの、注意しとかじゃこてって何てんち、もうサラサラ無くなるですね。そして、日頃はもう、おかげ頂き過ぎとるというお礼の方が非常に強くなるです。ね。お前の弟子にしちゃ、お前とこの弟子は出来すぎとるとぞと。ね。お前の弟子にしちゃ皆が素直だぞと。と、例えば頂いた途端にね、その不平心どころか、反対に、本当に日頃のお礼の足りない事が分かって来る。

 今日は御神前で頂けた事があの、昨日、一昨日だったかな、あの、テレビであの、〔オランダ左近?〕というのが晩にやってますよね。あれはあの、柴田連三郎という、あの小説家が書いた小説を映画化した訳なんでしょう。そして、その柴田連三郎が、自分もその役者に出てる訳です。いわゆる、自作自演という訳ですね。自分の書いた筋書きの中の一人物として、その柴田連三郎自身も出ておるという、私は初めて見ました、その柴田連三郎の役者ぶりというものもね。なかなか、よう上手であるですよ。

 その事を今朝から頂いて、今日87節を頂いておる訳ですけれども。私共の動きというものは、人間とは天地金乃神様との繋がりというものは、もう切っても切れないものでありますし、また、私共の上に起きて来るすべての事柄というものは、言うならば神様の筋書き、神様の御演出の中にあって、こうあっておるだけの事。ね。ですから、例えばなら自分自身がそこで腹を立てたり、情けなかったり、まあ、ありとあらゆる神様にお喜び頂く事の出来ない反対な心ですね、いわゆる。恨みとか辛みとか、ね、腹立ちとかと。神様の言うならなされ方。神様がそう私の上に現れておられる。ね、一つの事件ごとにいたしましてもそうです。

 どうして、こんなややこしい、こんな難しい事件になるだろう。神様の御演出なんです。ですから、御事柄として受けて行くところに、神様の後演出のまにまに事が運んで行くから、結果においては、こういう素晴らしいおかげという事になるのです。それを少し人情を使ったり、頂き方がまずいと、それがえらい、こんがらかって来てですね、いよいよその、難儀という要素になってしまう訳です。それを神様の御演出として頂けるところに、もう必ずそれこそハッピーエンドに終わらんならんごと出けておるのが神様の御演出なんです。全ての事が。それは、皆さんがここで皆さんの過程の上でも、本当に悲しい事だ、腹の立つ事だ、もう何、まあ信心しよってどうしてこんな事が起こるだろうかといったような事柄が起きて来ると。

  けれども、もう本当に神様のそれが御演出だと、こちらが頂いてです。その神様の御演出のお邪魔にならんように、お邪魔にならんようにというような生き方。ね。神様のお働きに邪魔にならんような心の状態、また信心修行というものを成されて行く時にです。もう本当に神様のお働きに恐れ入ってしまうというような答えが必ず出て来るんです。それがどうでしょう。それを知らずに、それがまた分からずに。ね。その問題を、例えば人情、人間心ばかりで、こう工作しようとしたり。ね。いかにも、それは良く出来たようかのように見えておっても、ね、それは決して良い結果は生まれて来ない。ね。その、信心してね、おかげを受けるという事は、もうその神様の言うなら何と申しますか。んー、仕上げは隆々という事を申しますね。何とかね。仕上げを〔ごろうじて?〕と言うですね。
 その神様のね、この仕上げて下さる、その仕上げぶりというモノはもう、ただ頭の下がるばかり、恐れ入ってしまうのですから、そういう働きがあっておる事を私共が知らない。例えばそこに難儀なら難儀という、まあ、の要素に見える事柄が私自身の上に起きたら、それは私の心の中に、ね、神の氏子が宿ったと思うて、その御事柄としてそれを大事にするという事。ね。ね、問題までの宝と、本当にそうなんだと。心の使い方、心というものは、もう本当に体内が子供を宿す場であるように。私共の心というのは、おかげを宿す場なのだ。ね。

 ですから、そこへ例えば私共が分からんから、それを難儀な事だと思っておるけれども、今、体内におかげの元、宝の元が宿ったんだと思うてそれを大事にするという事。ね。だから、そういう例えば大事にする頂き方、有り難く頂かせて頂き方がです、なら私が申しましたようにです。まあ、何ちゅうロクソな方じゃろうか。こげな、御結界がザクザクしよる。これは、すずも夕べは洗うとらじゃったばいな。御神米はここへ出しっぱなし。と、なら不平不足を言うておったんでは、神様のお働きの邪魔になる。そこで、頂き方がです、ね。私の弟子としては出来すぎとる、という頂き方には、もう不平不足なんかは出てこない。いやあ、本当に日頃の、ああしてキチッと出ける事だけでも、お礼、ね、毎朝気分よう、気持ち良うここに座られるように、ちゃんと整理整頓が出けて。もうそれこそ、毎日使うこれも、すずりなんかも、きれいに洗い上げて新しい水がここへ入れてある。
 本当に清々しゅう気分よう、日頃使えておるという事の時は、もう当たり前のようにして使いよる事が、お礼が足りなかったなあと、こう思わせて頂いたら。ね、全てを竹内よしこで頂かにゃいかん。ね。そういう、いわゆる受け方、頂き方なん。ね。または、今、今神様のおかげを下さるところの、いわば宝ともなるものの元がです、今私の心の中に宿ったという時です。例えば、そこに難儀な問題という問題が私の上に起きて来た時には、ね、これを本当に神様が仕上げて下さる。またそれの仕上げて下さる、そのお邪魔にならんように、私共はその脇役を勤めさせてもらう。これは、とりわけ合楽で御神縁を頂いておる人達が、あの、神様を身近に感ずると言うでしょう。

 私はそれをいつも身近に感じておる。誰よりも、まあ、ここではね、私はいつも神様を身近に感じておるという事はね、神様がいつも自作自演をなさって、自分と一緒に共演しておって下さる。〔     〕私が主演のごたるけれども、まあ神様が主演といたしましてもね、金光大神が主演として、言うならば私は、言うなればその脇役を勤めさせてもらうと。これは、昨日秋永先生、親教会の大祭から帰ってから、まあ色々お話をした後に、本当にあの、合楽がおかげ頂かにゃならんと、という事について、とにかくその、とにかく善導寺の御信者さん方が行き届いておられるという事を、えらい感心して話されるんです。ほんなこっじゃんね、もうどこに行ったっちゃもう、例えばこれは、本当、これは本当に合楽が真似せんならん、頂かにゃならんという事がどこにでもあると。ほれは良かとこ見てきたねと言うて、まあ言うた事でしたけれども。

 もう例えばお弁当なんかが、あんまりきれいに出けとったから、親先生と繁雄さんが早う帰られたから、お弁当一つ下さいち言うちから総代さんに言うたら、はあ、どうぞ持って行って下さいと言うて、あの、まあ二つ包んで下さった。なるほど、本当にもう見事に出けてました。もう涼しいようなお弁当でしたがね。そして、その、まあ総代さん達の、まあとりわけ、あの、きち先生、それから渕上先生あたりが、もうその一人ひとりの信者に対する懇切な事、丁寧な事に本当うちは感心したと言うて帰って来てました。きち先生、あんたどんが総代でいつまっでんその、下駄預って何てんするけん、他に他所の、他んとどんが育たんたいという風に、私はきち先生にも言うたけれども。そうじゃないな、これは、それぞれの生き方、在り方なのだけれども。

 なら、きち先生〔      〕下駄あずかりは必ずするですもんね、もう最高の総代です、あそこでは。が、もう必ず自分が、それからもう、はあ先生、貴方に下駄とってもってスイマセンと言うてもう、入って来た途端から、信者さんが皆もうすいませんでお広前へ入って来れれるという訳なんです。素晴らしかち。渕上先生が御結界ついても、その一人ひとりの、他所から参ってきた信者さんに対してでも、また時々しか参ってこん信者さんに対してでも、本当に懇切にお取次ぎさせて頂きよる。あれならば、渕上先生やらきち先生やらの信心に、あの、一つのやっぱあこがれを皆が持つはずだという事を、昨日、秋永先生が仕切りに言ってました。

 ね、先日私は、あの、今羽田野さんところの、あの、息子さんがあの、困っ、あの、病気で入院しておられました。ほれで、毎日お届けがあるし、まあ、こげん時、わたるさんちゅう息子。こげん時ひとつ、わたるさん、一つ信心でも頂かなければねと言うて、信心のお話をさせて頂きよったら、僕は実を言うたらね、この前のあの御造営の時にガラスを全部、羽田野ガラスとに頼んだんです。だから、もうあれを境にどうでん信心しようち思いよったっち。したら、何べんも何べんも、ここに集金に来る度に、来る度にですね、もうそれはエゲツない事を言われるて。その度にそれを見たり聞いたりするて。だから、もうあげな信者のおる所は僕はもう信じませんち思うて、腹に決めたち言うた。

 いかにね、お互いの一人ひとりの信心が、信心になっとらなきゃいけないか。そりゃ家に出入りする商売人ではあってもです、もう例えばそれこそもう、丸きり〔げなにば?〕しよるごたる物の言い方をされたと、こういう訳なんです。本当、心掛けなきゃいけない事ですね、ん。本当に良いモノが育とうとしておる時にです、もうそれが踏みにじられるような事が、それはね、三井教会には三井教会の生き方があり、ここにはここの生き方がありますけれども。なら、より良い生き方にならせて頂く事の為にはです、ね、私は見習わにゃならんとこは見習わせてもらい、改めなければならんところは改めて行かなければいけないと思うのですね。

 ね、先生の心の中に良いものが宿ろうと、こうした時にです。もうそれを流すような事を、いわばするような事があっちゃあ、神様に対して相済まん事になりますよね。まあ、余談になりましたけれどもです。本当に、あの思うてみますと、私共はもう合楽が一番良かのごたる思い方をしとるような向きが、私はじめある訳ですね。もう、それは良か事は良か、決して悪いとは思わん。それこそ、私の弟子にしては出すぎ、出来すぎとる。合楽の信者としては、教会長があのくらいなつに対して、皆さんの信者さんの行き届いておられるという事は、本当に関心するぐらいにある。けれども、ならそれで良いという事では決してないという事。お互いが、銘々のところで、いわば我体内に有り難いものが宿ったと思うて、それを大事にして行くという心がね、そういう心掛けが、いつも必要であるということ。ね。

 例えばその柴田連三郎の自演自作じゃないけれども、確かに私共の上に働きを見せて下さる事の中には、もう本当に神様を自分の、例えば事件事なら事件事の中に、そこに見る気がするんです。神様をそこに感じずにはおられないようなものがあるという事は、もうすでに神様が、ね、演出しておって下さる、いわゆる神様の筋書きの中に、神様自身が入り込んで来て下さってある。それを、私共が実感するのですから、ね、そこんところの脇役。私、昨日の朝の御祈念の時に、昨日これも秋永先生、これは秋永先生にだけ、まあ昨日は話したつもりだったんですが。大祭から帰ってみえてから、というて話した事でしたけれども、今日は87節でそんな事に関わっておりますから、その事をお話しますとね。
 昨日はあの、私、これは私自身が頂いた事だと思ったから、お話しなかったけれど。合楽教会の場合ですね、もうこれは、あの、例えば安部野の教会なんか、今、名実共に日本一と言われるほどしの、しかも女の先生で、もうお年よりの先生ですけれども。月々、御本部へ二千人月参りがあるて。毎月ですよ。ね。もう本当にあの、お話を別に沢山なさる訳でもなからなければ、だから私は、もう秋永先生その、もうこれだけは不思議に思う、どこから安部野の先生のどこから、あれだけの人が助かって行く事になるだろうかと思うと。ね。ある時に、いっぺん御本部で一緒にあちらの月参りがあったのと、合楽からの月参りとが一緒になった。

 家あたりは、まあ30人か40人ぐらいのお参りであった。あちらは、その時分でやっぱ選任ぐらい、もうあのお広前をぶっ通しに〔たてい?〕を取ってしもうてから、せんと入らんくらいにあった。初めて安部野の先生がお弟子さん方をズラッとこう、十人くらい引き連れて、そして金光様の前に初々しゅうお取次ぎを、もうこんなん沢山のお初穂をこう初々しゅう持ってお出でられてね。私共はここで、それを見せて頂いとった。そしたら、金光様おかげを頂きました有り難うございますと、たったその一言だけれども、その一言の、それこそ千万言の重みがあるっちゅうお言葉。言葉っちゅうのはあれなモンだろうと。ほらほら、ちょっと今の安部野の先生の有り難うございますを聞いたのち私が皆に。
 あの、安部野の先生の有り難うござますの中から、あれだけ沢山な人が助かって行きよるとよと言うて、話した事がございます、もう十何年前でした。ですから、確かにですね、そういう安部野の先生の真に有り難いというモノが私共とは、だだめが違うほどの有り難いのが、あのごひれいになっておるでしょうけども。なら、どういう信心すりゃ、あのように有り難くなれるであろうかという事です。もう私はもう、いつも、もう安部野の先生のどこから、あの有り難いものが生まれて来るかという事を願い、考え続けさせても、とてもとても、合楽あたりが手元足元んどん言いよる事じゃないと思わせて頂いて。それでいて、なら私はいつもそこに、一つの動燃心を燃やして心の中におって。どこから、あの信心が生まれて来るかというような事を、まあ色々、まっ追求させて頂いておる訳。ね。

 で、そんな事を私、昨日の朝の御祈念に、昨日の朝ですよ、思わせて頂きよりましたらね。いわゆる神様の、言うならば御演出。金光大神が言うなら主役をなさっておられるとするか。その事を頂いたから、合楽はどういうところの役を承っておるだろうかと、私が思うたらね、三枚目と頂いたです。ね、三枚目と言やあ、ちゃり役の事ですね、歌舞伎で言うと。二枚目と言うのが、言うならば、ね、いわゆる色男、役をするのが二枚目と言われております。ね、だから神様が主役であり、ね、または二枚目の御用を承っておる教会もおありになるでしょうし、なら、合楽は三枚目。聞けば聞くほど、頂けば頂くほど、なるほど秋永先生あたり、あんたが同じ事っじゃんの、本当三枚目じゃんのと言うてから話した事でした。

 ところが三枚目の素晴らしいという事はね、もう絶対〔   〕、どのような例えばあの、演出の中にあるお芝居でも映画でもですね、三枚目なしには生まれて来ないの、筋が運ばん。だからね、三枚目と言うのは、筋運びの役を勤めるのです。展開して行く訳、次々と場面が。そん為に三枚目というのは使われるんだと。はあ、してみると今私が和賀心時代を創るという、今度若先生が筑水の教師会で、まっ結局どういう所から合楽にあの、まるしょうやら青年やら、何育つかと。結局、なら合楽の信心を聞こうじゃないかという事になって、このあの、若先生がお話をするそうです。だから、原稿を書いておりましたから、私昨日いろいろその見せて頂いたんですけども。結局は、今合楽で言われておる和賀心時代を創るということ。といったような事がです、具体的にお話を出けれるような場が出けて来よるという事はね、その金光教の行き方、在り方の場面がね、一新しなければならん。変わって行く働きを合楽は承っておるなあと、ちっとばっかり調子が軽か。二枚目だ、じゃない三枚目だから。

 しかし本当にその、頂いて見りゃ頂いて見るほどそうじゃんのて言うてから、話させて頂いとった。まあ、ここの総代さん方で言うなら、高嶋さんあたりなんかは、もう素晴らしき三枚目だと思うですね。まあ、そげなんこつばっかアンタが言うちからアンタ。そげなこつばっか〔誉めたってから?〕ち皆が言いよるです。けれども、あの人が〔     〕事は必ず実現するです。これは不思議です、昔から。それで、ちょっと調子の軽い事を言うもんですから、そげなこつだってアンタが思い立ってちこう、言うです皆が。けれども、結局は、なら高山さんが言うとおりにこうやって、あの、回転して、あの、展開して来るですね、合楽の動きというものが。

 だから、本当に高嶋さんなんか素晴らしい三枚目の受け持ちを、受け持ちの場を、自分では知るか知らんけれども、私共もそうでした。知らなかった、そんな事は。ね、今教団の中で三枚目を勤めておる合楽。ね、しかも、これがその、金光教の信心を世界に、この布教して行こうといったような働きの為に私共が三枚目としての御用を承らせてもらうなら、せっかく、なら承らせて頂くなら、そういういわゆる脇役ですね、いわゆる。だから、名脇役にならせてもらう。三枚目が二枚目になろうと言ったって、とても出ける事じゃないのですから、三枚目として、もうこれは合楽じゃなからなきゃでけんというほどしの物をです、一つ作って行こうと、私は昨日は、決心した事を秋永先生に聞いて頂いた事でございました。ね。

 なら、そういう、なら名脇役を私共が演じさせてもらう、勤めさせて頂くという事の為にです。なら、今日あたりの御理解をね、我体内に宿った、例えば子供を神の氏子として、神の子として、それを大事にさせて頂くと同じように、私の心に宿ったもの。ね。それを、大切にして行く。ね、しかもそれをね、神様の言うならば御演出であるのですから。神様の御演出のお邪魔にならんように、して行かなあいけんて。もう、ここで、〔              〕参っておりますけども。もう一人ひとり自分方、色んな出来事んことを思うてごらんなさい。それはもう、本当に素晴らしいです、神様の御演出。

 だから、お取次ぎと言うのは、その神様の御演出に邪魔になっちゃでけんばい。親先生任せになっときさえすりゃ良かばいと言うてその、御演出の邪魔にならんように、邪魔にならんように私がお取次ぎさせてもらう訳です。ね、そして、なら結果においた、ほーらのというおかげになって来る訳です。ね、ほーら私が言う通りしときゃ良かったろうが、という事になって来るんです。それを、なら自分で我流で、おかげにしたというおかげなんか、そりゃあね、その頭の下がるほどしの物になって来ないです、それでは。いや、結果においては、かえって悪くなるような事すら起こって来るんです。

 ね、変なところにです、言うならば結末がつつになってくる。いわゆる、ハッピーエンドに終わらん。もう神様の御演出は、もう絶対最後はね、もう本当に有り難い、幸せという事になって来るんですよ。ね。ですから、そういう例えば事柄の一つひとつをです、ね、神様の御働きとして、御事柄として受けて行くという事などは、自分の心に宿ったその事柄をです、大切にしておる事と同じ事になるのですから、ね、十月十日の月が満ちたら、良い物が必ず出産する事になっとった。ね。それを、私共が大事にしないから、ああーああー、また流産になったというような事になる訳なんです。

 せっかくのおかげがです、流産、流産という事になって、とうとう本当なモノは得られない事になってしまう。信心しとってもそうなんだ。ね。だから、ここでは、まあ女の懐妊という事についての御理解でございますけれども、それを今日、私が頂いた、また昨日頂いた事やら、ね、を織り交ぜながら聞いて頂いて。言うならば、本当に万代までの宝と思われる。言うなら、お徳を頂いていくという事、お徳ね。これは、もう万代の宝なんです。そのお徳を受けて行くところの働きというものがです、神様の御演出の中にあるのだと。だから、そこで私の演ずる役という自覚に立ってです。ね、神様のお邪魔にならんような脇役を勤めさせてもらわにゃならん。ね。

 そして、結果においては、本当に神様のお働きには恐れ入ってしまう。一分一厘間違いのない事なと、初めの間は難儀と思うておった事がです、ね、一年立ち、半年立ってみて、初めて良いものが生まれてくる。ね。子供の場合はそれが十月十日という事でありましょう。ね。それを、せっかく頂いたおかげの元になる、お徳の元になる物を、私共が流産に終わらせておるような事がたくさんありはしないかと、こう思う。いや、人が頂こうとしておる物の、をいわば流すような、お邪魔をするような働きすら私共の上にはありはせんかと。ね、例えば羽田野さんところの息子の事を例を取りましたが。

 例えば、せっかく合楽にお参りをさせて頂いて。ね。久留米からあの、〔   〕さんちゅう人達が一家中一生懸命参って来よった。そしたらあの、非常に霊徳に触れて行くんです。もう体をこうこうやって揺すってから拝まれるんです。それをですね、非常に悪口を言うた人があったんですよ。だから、それば横で子供が聞きよった訳です。ね、だからお母さん、もう私は恥ずかしか。アンタあげな事するなら、もう私だんな参らんち言うちから、子供も主人も参らんごとなったけん、本人まで参らんごとなったでしょうが。

 ね、本当に、もう本当に、もう合楽でこれは、もう私のなら、あの人が頂いて行きよった霊徳が成就するじゃろうかと思われるくらいに、色々頂くことやら、おかげ頂きよったんですよ。ね。そしたら最後に参ってそんなお届けをされるんです。だから、そげな事があるもんの、そらあ、そこば辛抱して参らじゃこてというような意味の事は話しましたけれどもね、もう子供達が恥ずかしがってですね、それけんて自分の力じゃどうにもでけんち。だから、合楽に参ってから、合楽の方達がその邪魔になるという事を言うたそうです。そればなら、子供が横で聞きよった。ね。だから、その時、人の良いものがあるなら、もう宿って生まれようとする、そういうものを邪魔するような事にすらなりかねないのですから、個人の頂き方一つでは。ね。

 ね、そういうような、これはもう自分のところじゃない。人に良い物が宿ろうとする事ですら邪魔をするような働きになってはならない。もうそれこそ、私達は思うです。本当に人を軽うみなと仰るが、私は思う。本当、言葉使いでっちゃ、あのロクソな言葉は使うちゃならんと思うですね。んー。これは、銘々の心の中に宿る、お徳を受けて。お徳が宿る、お徳の元になるような素晴らしい事が宿ったんでも、なら自分の、いわば演技次第では流れてしまう事になるし。または、人の上に宿ろうとする〔   〕すら、例えば私共の生き方がまずいとです、ね、流産させるような、いわゆる神様の働きに邪魔をするような事にすらなりかねないのでございますから。

 本当に信心する者、そこんところを良う考えさせてもろうて、おかげを頂くと同時に、これはもう絶対、私の言うなら心に宿る素晴らしい、宿ったもの。これをいよいよ良い物に育て上げて。ね、そして、それが出産のおかげを頂くところまで、心掛けなきゃならないという事を聞いて頂きましたですね、どうぞ。 


                     末永信太郎 ( 7月8日 )